7つの光の方へ

ブログタイトル変えました

爆笑問題太田さんの話と赤ちゃんと、母になった私と真夜中のLION

かなり昔、ラジオ番組で爆笑問題の太田さんが「コミュニケーション」について話していた。

この内容がとても印象深くて、私は時々思い返す。

曰く、コミュニケーションは発信者だけじゃなくて受け取り側もあって初めてコミュニケーションが成り立つ、というもの。

その中で一番覚えているのが、赤ちゃんは最大の表現者、話すことはできないけれど、泣いたり身体を使って精一杯表現する。お母さんもまた一生懸命赤ちゃんの表現を受け止めて気持ちを察しようとする。

言葉だけじゃなく体全体で発したものを理解しようと努力する事こそがコミュニケーションだ、というもの。

当時私に子供はいなかったけれど、この話がすごく好きでスマホにメモっていたほどだった。

 

このラジオを聞いた数年後、私は母になった。

私のもとに来てくれた赤ちゃんは、まーーー宇宙人。私がいないと死んでしまう、弱くて柔らかくてこれまでの人生で出会った中で最も尊い宇宙人(宇宙人と出会ったことはないけれど)。

伝えたい事はとにかく泣いて伝える彼とべったり数か月過ごすと、不思議と彼の泣き方の違いが分かるようになった。「お腹がすいた泣き」「不機嫌泣き」「おいどこ行ってんねん、はよボクの近くに来い泣き」など。

私は何度も太田さんの話していた「赤ちゃんと母とのコミュニケーション」の話を想った。赤ちゃんと対話することの難しさや尊さを思いだした。

 

そして、子どもがいると一人になれない事を知った。

育休中、とにかく赤ん坊が中心の生活、彼と常に一緒に過ごしていた。

起きているときはもちろん彼が眠っていても息はしているか、吐き戻しの海に溺れていないか気になって常に赤ん坊の事が頭にあった。「一人の時間が欲しいなぁ」といつも思っていたけれど、例えば夫に半日お守をお願いして一人で外出しても、息子の事が気になって即帰宅。

赤ちゃんとは常にコミュニケーションを発信する存在、それを否が応にも受信してしまう私、少なくとも赤ん坊が1歳になるまで私は孤独じゃなかった。孤独になれなかった。

前置きがむちゃ長くなってしまった。

私は真夜中のLIONという歌がとっても好きだ。

都会の喧騒、夜でも煌々としている街の片隅を孤独に歩いている「僕」が、やがて草原を悠然と歩くライオンに変わっていくような歌だ。

「僕」は孤独で、悲しみや苛立ちを誰とも共有できず、夜だけが共鳴してくれているように感じているのだろうか。

そして2番の冒頭にある「泣き止まない赤ん坊」という歌詞に、特に胸がときめくのだ。太田さんの言葉や、私自身の赤ん坊との対話を思い出して、たまらない気持ちになる。

歌の中で、赤ん坊の泣き声は「あんたは一人じゃない」と強く鳴り響くメッセージに感じてしまう。

真夜中のLIONは孤独な歌だけれど、一方で、どうしたって独りにはなれない条理みたいなものを強く感じる。

独りになりたい、誰とも分かち合えない、でも誰かに聞いて欲しい。

孤独になれないからこそ、誰かに伝えようともがいて、あるいは貴方の表現を理解しようともがいて、朝を迎え撃つのかもしれない。